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Wed.

「戦争の罪を問う(責罪論)」カール・ヤスパース

 沖縄から戻った。現地では、予測通り台風に遭遇し、おまけに図らずも、沖縄で竹中平蔵氏と出くわすというアクシデントまであり、盛りだくさんの沖縄だった。
 私は、あの悲惨な記憶を今も持ち続ける沖縄で、海を見ながら久しぶりにゆったりとした気持でぼんやーりと考える中、一つ思い出したことがあった。

 沖縄へ行く直前に、「右傾化する若者」を題材にあげてみた。
 彼らは、よく中国戦線での虐殺の事実について、死傷者の人数問題などを指摘し、「中国だって悪いのだ」という論理構成をしようとする傾向がある。このような、いわゆる「右」よりな方たちが論じる主張について私は何か記憶に引っかかるものを感じていた。それが何だったのか、前回のときは思い出せなかったが、たっぷりとした時間の中で、一冊の本を思い出したのだ。
 それが精神科医から世界有数の哲学者となったドイツ人カール・ヤスパースの「責罪論(「戦争の罪を問う」)だ。

戦争の罪を問う 戦争の罪を問う
カール ヤスパース (1998/08)
平凡社
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 ヤスパースは、戦前には既にハイデッガーと並び世界で有数の哲学者としての名声を得ていた。しかし、戦時中は、婦人がユダヤ系であったことから離婚を強要され、これを拒絶し教授を務めていた大学から追放されるなど、迫害を受けることとなった人だ。
 第2次大戦終戦直後、ドイツ人は、隣国から否応なく突きつけられる罪の意識に苛まれ、また生きていくことすらできない客観的な生活状況という極限状態に陥っていた。ある者は「俺たちだけが悪いんじゃない!」「あの戦争の理解はこういうところに間違いがある!」またある者は、完全に無関心で「もう忘れたい」と言い、まさに「戦争の罪」をどのように受け止めるかすらきちんと考えることすらできない状態であった。
 その戦後すぐの1946年、大学教授に復帰したヤスパースはハイデルベルク大学で講義を行った。テーマは「戦争の罪」とどう向き合うかというものだった。この講義録をまとめたものが「戦争の罪を問う」であり、ドイツ人が「戦争の罪」とどう向き合うべきかを説いた非常に有名な本だ。

 ヤスパースは、敗戦国民として持つ戦争の罪を4つに分類する。①刑事犯罪②政治上の罪③道徳上の罪④形而上的な罪がそれだ。そして、そのそれぞれについて、審判の仕方は異なることを示す。
 ①の刑事犯罪は、正式な手続に則って法律を適用する裁判所によって審判される。
 ②の罪は、自分の従属する権力の主体であると同時に、自分の現実生活のよってたつ秩序の主体でもある国家の行為を、その公民であるが故に自分もまた負わなくてはいけないという政治上の罪であり、これを審判する者は、戦勝国の権力と意志、または国際法の名のもとに通用する規範である。
 ③の罪は、如何なる場合にも自分が一個人として行う一切の行為について生じる道徳上の罪であり、これを審判する者は自己の良心と、この自己の魂に関心を抱く他者との精神的交流にある。
 ④の罪は、人間相互に連帯的関係があるが故に、世の中のあらゆる不法と不正に対して自分がその時と所を共有する限り、自分にも罪の一半があるように感じ、振り払うことができないものとして自分に覆い被さる形而上的な罪であり、その審判者は神のみである。

 これを日本に合わせて言えば、丁度東京裁判は、①②にあたる。ヤスパースは簡単に言えば、これは受け入れることがその罪の責任の取り方であると言う(以前にも靖国問題に関連して書いた、「東京裁判・A級戦犯問題を「間違いだ」とか何とかいうのは無意味だ」という私の考えも基本的にこれと同じ理由だ)ただ、この法的罪と政治的罪を「裁判」によって償っただけでは、結果として「罪」の意識は消えることはない。人によって、アジアでの容赦ない虐殺、強制労働などの事実について、④形而上的意味の罪を神を審判者として持ち続けるであろうし、③道徳上の罪は、自己の良心と他者との精神的交流によってのみその罪は浄化されるということになるだろう。

 このように、ヤスパースはそれぞれの罪の種別に応じて、審判者も、要求される責めも、償いの仕方も異なる。人間の使命は、このことを良く理解し、その事実をしっかりと受け止めることにあるとする。そして、彼は、「敗戦国」となり「罪」を負った事を、一人の人間としての転換の好機ととらえる、この「敗戦」を乗り越えるものは、権力への渇望でも、迎合でも、謀略でもなく、「公正」な思考しかないと説く。
この背負った「各自がおのれのうちに見いだす罪」の償いにより、内面的な革新と生まれ変わりをもたらすのであると。
そして、そのことこそが、今度は、同じ穴のむじなである「戦勝国」に、平和への「責任」を突きつけることになると。

 しかし、ヤスパースは、このことを理解せず、おのれの中の「罪」と向き合うことから逃避・回避したいという衝動が起きることも同時に指摘する。
 いくつかの類型をヤスパースは予言的に論じているが、そのうちの興味深いものをあげれば、

①罪の清めを回避して、それ自体としては正しいが、罪の問題にとっては枝葉末節の特殊問題に逃れる態度
②罪の清めを回避して一般問題に逃れる態度(一個人の自分に関係はないとして罪の意識を薄めようとする態度)
 という罪の清めの過程からドロップアウトしようとする衝動の類型を説明するのだ。


 私が、南京大虐殺での主張に引っかかりを覚えていたのは、このヤスパースの「清めの回避」の分類に完全に一致していたからだ。
 少しでも自分にのしかかる「罪」を軽くしたいという意識が、この枝葉末節の重箱の隅をつつくような揚げ足とりを行わせる。そして、これに同調する同じく「回避したい」人たち同士が精神的交流と一体感を持って、この「集団逃避行動」を加速させていくのではないだろうか。ブログが全盛でないころには、この手の話題を面と向かって話し合うことは少なかったであろうが、小学生ですら扱えるブログの登場によりこの傾向は顕著になったのかも知れない。
 しかし、いくら逃げようとしても実際には、そのおのれの深いところでは、それが枝葉末節の指摘に過ぎず、何ら核心に関わるものでないことを理解しているがために、道徳上の罪は依然として消えることなく、より「罪」の意識を強くし、そして、これを無理矢理にかき消すために、相手を償うに値しない者に貶めたり、被害者である者に対して、敵意や侮辱や排斥の態度を取らせるという最悪の悪循環に陥っているのではないだろうか。
 だが、それは、与えられたそれぞれの「罪」を背負う者が、これを自らの心の底にある良心を審判者として、受け止め、浄化することによってしか消えることはない。
 また、現在の中国共産党を指して、あの非民主的な国が云々などという。これはヤスパースの「一般論化」という回避類型の亜流だ。我々が心の底に持っている「罪」の対象は中国・東南アジアの市民という個の人間であって、共産党という組織ではない。これも単なるすり替えによる逃避で、依然としてもやもやふりかかる罪の意識は消えることはない。
 今の、「ネット右翼」を中心とする言説、確信犯的な右傾派知識人らにプロパガンダにうっかり乗せられ、罪の浄化という道から逃げだし、「楽」な道を選択するとき、永遠に消えることのない罪の意識の中に埋没し、当時の同じあなのむじなであった帝国主義の「戦勝連合国」に平和への責任を突きつけることすらできないまま、同じ過ちへと向かうことになるのかも知れない。



  ヤスパース、久しぶりに読んでみたがやはりいろいろ考えさせられる。
 自分の成長とともに言葉の響きが変わってくることを感じた。昔に読んだ方も、も う一度読み直してみてはいかがだろうか。また。読んだことがない若い世代の方は 是非読んでみて欲しい。哲学書としては非常にライトな本であるし、話し言葉の講 義録なので読みやすいし、何より短い。
  あと少しの夏休み、一日だけ戦争と罪について考えてみるのもいいのでは。 
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01:28 | 夏よみたい本 | comments (2) | trackback (-) | page top↑
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Comments

# こんばんは
戦争のこと、ちょっと記事にしてみました。勝手ながらTBさせて頂きました。
by: 吉祥天女 | 2006/08/23 19:35 | URL [編集] | page top↑
#
吉祥天女さんこんばんわ。
そちらのブログにコメントさせていただきました。
ご覧下さい。
by: DANZO | 2006/08/23 22:09 | URL [編集] | page top↑

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